蔓延する不安のなかで

吉村聡(上智大学 総合人間科学部)

世界中で、Covid-19との闘いが続いています。私は、この闘いには、2つの種類があると感じています。一つはウイルスと人類との闘い、そしてもう一つが、ウイルスをめぐる不安や悲しみとの、私たち一人ひとりの闘いです。

前者については、私たちが日々できることを続けていくのが最善でしょう。新しい知見に耳を傾け、取り入れることも必要です。社会は、かならずこの病を乗り越えるはずです。これまでにも、ペストやスペイン風邪を代表例として、結核、SARS、MERS、エボラ出血熱、AIDSなど、次々に現れる悪性ウイルスと、人類は闘いつづけてきました。そして、そのほとんどを終息させ、あるいは「もはや死の病ではない」と言えるところまで克服してきました。社会と科学は、未知の病を克服するという歴史を重ねてきたのです。

問題はもう一つの闘い、つまり「不安」「悲しみ」です。ここには、「孤独」も含まれています。社会がどれほど重篤な病を乗り越えてきたと知っていても、自分がかかるかもしれない、あるいは大切な人がかかってしまうかもしれないという不安を完全に抑えることは難しいかもしれません。マスコミでは、連日、感染者数と死者数が報道されています。「できることはほとんどないのに、ウイルスはすぐそこまで迫っている」と感じやすい世の中になっているのでしょう。そもそも治療法がまだ確立しておらず、症状を疑ったとしてもすぐに検査を受けられるかどうかも分からないとなれば、不安になるのは当然かもしれません。そして、この病で大切な人を喪った方々にとっては、言葉では言い表せないほどの悲しみが続いていることと思います。社会が困難を克服したとしても、それがそのまま個人の克服や安心とは結びつかないことがあるのです。

こころの専門家は、不安や悲しみを抱えている人たちの援助を続けています。援助対象者には、医療関係者などの専門職も含まれます。ときには、同業者のサイコロジストが含まれることもあります。これは、当然ながら、誰もが不安になりうることを現しています。誰にとっても、不安と孤独は苦しいのです。

連日の報道がコロナで埋められていくように、私たちの行動がコロナ対策で占められているとき、私たちのこころも、コロナでいっぱいになっています。苦しみで覆われたこころは行き場を失います。私たちが胸の中にもつ「こころという空間」が、苦しみでいっぱいになってしまうのです。被害的に感じやすく、「正しいか間違っているか」という二分法に過剰にとらわれやすい状態をもたらしかねません。このとき、私たちは考えることも感じることも、ほとんどできなくなっています。そしてそのことに気づきにくくなっています。

大切な人と別れたり、人生で大きな喪失や失敗と遭遇したりするとき、私たちはこのような状態に近づくのかも知れません。また、こころの専門家であっても、自分たちの仕事に専心するあまりに、こころがいっぱいになりすぎる危険性をはらんでいます。そして、自分自身のこころの悲鳴に気づかないまま、他人のお世話にかかりきりになるかも知れません。

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最近、私は、長年生活をともにした猫との別れを余儀なくされました。

その瞬間は、緊急事態宣言が発令されて間もない日の夜、突然やってきました。私にとって、彼は特別な存在でした。こんなにも早く別れなければいけないとは、思ってもみませんでした。

それからしばらくして、私は、勤め先の医療機関で知らないうちに自分がコロナにかかっていて、私が介したそのウイルスが彼を殺したのではないかという不安に襲われました。胸のうちでは、猫の突然死は、しばしばあることだという事実も分かっていました。それでも私は、動物のコロナ症例について調べずにはいられませんでした。いくら調べても、亡くなった本当の理由が分かるはずもないのに、です。

スマホを手にする私は、気がつくと、ひどく疲れていました。“なんだか意味のないことをしているな”と感じたそのときになってようやく、この不安が、もちこたえられなくなった哀しみによってもたらされたものであり、これまでの時間や彼への接し方をめぐる後悔の念が、姿を変えて私を襲ったように感じられたのだという事実に気づくことができました。ごくあたり前の事実に気づくことで、私は、少し落ち着きを取り戻しました。そして、苦笑いを禁じ得ませんでした。

今でもふとしたときに、彼の声が聞こえる気がします。太陽の匂いに、彼のあたたかな毛のぬくもりを思い出すことがあります。そのたびに、私は何とも言えない気持ちになります。悲しみは、おそらく、この先もずっと続くのでしょう。

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精神分析家Bion,W.R.は、19世紀イギリスの詩人ジョン・キーツのネガティブ・ケイパビリティという言葉に注目しています。「閉鎖病棟」などの作品で知られる作家の帚木蓬生も、この言葉に焦点をあてた本を著しています。ネガティブ・ケイパビリティとは、すぐにはどうしようもない事態をもちこたえる力のことを言います。

精神医学も心理療法も、苦痛を取り除く方法を数多く発展させてきました。不安や苦痛をもたらす神経系に作用する薬によって、症状という苦痛はすみやかに和らぐことが期待されます。また、たとえば、最近注目されることの多い心理療法の一つである認知行動療法では、抑うつをもたらしたり持続したりする「考え方の癖」を修正することで、抑うつ症状の解決をはかろうとします。これらは、私たちの心身の健康を維持するために重要な役割を果たしてくれます。

一方、精神分析では、すぐに苦痛を取り除くことよりも、Bionが注目したネガティブ・ケイパビリティの涵養を目指しています。精神分析家をはじめとした、こころの専門家に必要なのも、この能力であると説いています。私たち人類が、たくさんの感染症と闘わざるを得ず、また自然災害の猛威を避けることができないように、苦痛や哀しみを完全に排除して生きることはできません。できるのは、哀しみや苦しみを持ちながら生きていくことかも知れません。でもそれは、確かに、辛く苦しいことです。

さらに、専門家として現場にたつときには、誰かの役にたちたいと思いがちかもしれません。そして、自分には何かができるという思いにすがりたくなるかもしれません。でも、このネガティブ・ケイパビリティという考えが教えてくれるのは、「私には、ほとんどなにもできない」ということです。これも、悲しいことかもしれません。でも、この悲しみと傷つきをもちながら、目の前にあることと目の前の人を理解して、そして歩き続けるしかないのかもしれません。そして実は、悲しみや傷つきを通り越えた先に、人間らしいぬくもりがあるのかもしれません。精神分析はそう教えてくれているのだと思います。

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身体や精神に何らかの障害や傷つきを負う人、経済的危機と闘わなければならなくなった人、幼い命を守る人・・・多くの人たちが、それぞれの関わりの中で闘っています。あらゆる人たちが、新しいことに挑戦していかなければならない状況が続いています。みんなが不安と隣り合わせにいて、そして、苦しみと不安の中にあります。

精神分析は、人はあまねく不安にとらわれやすいことを教えています。分析は、不安になった人を責めません。不安になった人を理解しようとしています。誰かや何かを責めるのでなく、知ろうとします。そしてその苦しみや悲しみを生き抜いて、自分が自分らしく生きていけるよう、支援しようとしています。

Freudの言葉が思い出されます。Freudは分析の目標を「神経症の苦痛(耐えがたい苦しみ)をありふれた不幸に変えること」と述べました。苦痛を消し去るのではなく、「ありふれた不幸」として体験できるようにというFreudの言葉は、私の胸に、真実味をもって響きます。ウイルスによる災厄を克服するためには、まだ時間が必要です。悲しいことですが、現実に払わなければならない犠牲もあります。しかし、このFreudの言葉を胸に臨床に臨むなら、もしかすると、支援者のこころに少しばかりのゆとりがもたらされるかも知れません。そしてこのささやかなゆとりが、実は、とても大切なものであるようにも感じます。

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ここに私がつづったことは、どれも、精神分析の世界ではよく知られています。目新しくも特別でもないことを知りながら文字にするには、いくらかの恥ずかしさもあります。でもこのありふれたこと、当たり前のことを、当たり前に確認して繰り返すことが大切だという思いが、私の胸のうちにありました。繰り返しの中に大切なことが生まれるという事実を、分析から学んでいるからです。

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最後に、不安とともに生きていかなければいけない人々と、自分自身も不安にさらされながら支援にたずさわる専門家の皆様に向けて、詩人の高階杞一の一節を引用して筆をおきます。ここには、ネガティブ・ケイパビリティに近いこころのありようが、別の形で表現されているように思います。

小学校への道は
田んぼの真ん中にあった
そばには小川もあって
そこでよくザリガニをとった
田植えが終わり
水を張った田んぼには
雲が映って
なんだか空を歩いているようだった
(略)
そんな道を
今でもときどき歩く
道も田んぼも
とうの昔になくなってしまったけれど
自分が今どこにいるのか
わからなくなった時
目をつぶって
雲の映る田んぼの道を
ゆっくり ゆっくり
帰っていく

高階杞一「雲の映る道」から