孤立から成長へ アーサー・クラインマンのエッセイに想う
皆藤 章(京都大学名誉教授)
はじめに
2019年11月22日、中国の武漢市で新型コロナウィルス(SARS-CoV-2)感染による急性呼吸器疾患(COVID-19)の第1症例が報告され、その後、このウィルスは全世界に拡大し現在に到っている。2020年4月26日現在では、感染は185の国と地域に及んでおり、感染者2,868,539人、死者201,50人、回復者811,660人と報告されている。
日本を含む世界各国がこの事態に対処しているものの、少なくとも日本での感染拡大はまだ終息の気配を見せていない。国民全体に自粛要請が出され、生活のさまざまな面で不便・支障を来すようになっている。この間、政治家、医療者、専門家はもとより、多くの識者、報道関係者などからの発言が後を絶たず、しかもそれらは新型コロナ対策という御旗は掲げているものの、かならずしも統一された色調の言論ではない。
このような状況にあって、臨床心理の専門家として、発生当初からの状況を現代人のこころのテーマとして考えてきた。それはまだ、発言するには十分な考察を経ておらず今後の課題としたいが、その一方で、臨床心理の実践領域がこの事態にどのように対処しているのか、その工夫や知恵を共有し、次代の危機に備える必要性をも痛感している。そこでまず、かつて勤務していた京都大学大学院の臨床実践指導者養成コースの出身者に、筆者の意図を伝えて情報共有を呼びかけることにした。幸いにも多くの専門家から現状や必要な資料、提言など、貴重な情報が寄せられた。それらは西見奈子先生のチェックを経て本サイトに掲載されている。また、今後も継続されることであろう。
これとときをほぼ同じくして、2018年のボストン滞在の際に公私にわたり言い尽くせぬサポート(ケアと呼んだほうがいいかも知れない)をいただいた、ハーバード大学教授のアーサー・クラインマン先生からメールが届いた。喘息の持病がある先生のことはずっと案じていたのだが、そのメールに先駆けて届いたメールにお元気な旨が記されていて安心したのも束の間、二の矢のメールであった。メールには、2020年4月10日付の”The Wall Street Journal”に先生が寄稿されたエッセイが添付されていた(https://www.wsj.com/articles/how-rituals-and-focus-can-turn-isolation-into-a-time-for-growth-11586445045)。ここでは、筆者の自由連想と合わせて、そのエッセイを紹介していきたい。
エッセイの始まりに
エッセイのタイトルは、How Rituals and Focus Can Turn Isolation Into a Time for Growthである。医療人類学の世界的権威である先生には、若いころ、故ジョーン夫人とともに、中国や台湾をフィールドにして医療と文化の関係を深く探究してきた経験がある。その経験が先生をして東洋思想にこころを向かわせることになった。Rituals and Focusには、そうした先生の思想的背景を感じる。
新型コロナウィルスを巡る言論のほとんどがエヴィデンスに基づいた色調であるのに対して、このエッセイは先生の経験を依代にして淡々と綴られている。だがそこには、アルツハイマー病を患った家族のケアという途方もない体験をしたからこその境位から、静かに語りかけてくる趣がある。
さて、Rituals and Focusには、そうした先生の思想的背景を感じる。「儀式と集中」は直訳だが、ここでの儀式は、われわれが常日ごろ行っている活動のプロットのようなものである。起床して洗顔し、朝食を摂り、掃除をし、買い物をして・・・といったプロットたちである。東洋思想にかぎらないが、そうしたことのひとつ一つには儀式的な意味がある。先生の場合はそこに東洋を見ているのだが、翻って、われわれは日常生活のそうしたプロットたちに意味を感じて生活しているだろうか。もとより、「意味」とは何だろうか。それを体験することは、孤立している状況を成長を育むときに向かわせるのだと先生はいう。Focusは集中だが、「専心する」「夢中になる」という意味もある。要は日々の儀式にこころを傾けるということである。
タイトルをじっと眺めてその含意を味わっていると、「時熟」ということばが連想された。心理療法の鍵概念のひとつだと筆者は位置づけている。臨床実践をとおして「ときが熟する」体験を味わうことがあるが、それはクライエントの変容のときであることが多い。また、臨床家が深い感慨をもって心理療法の旅に爽やかな風が吹くのを味わうときでもある。タイトルの背景に、ときの流れが感じられるのではないだろうか。いまは、孤立から成長への変容のときを生きているのだとタイトルは教える。タイトルに続いて、ポイントを下げて次の文章が続く。「病んだ妻をケアした経験から著者は、平凡な作業に細心の注意を払って秩序ある日々を送ることによって、私たちは目的をもって耐えることができると語る」。これは新聞社が作った文章だと思われるが、これを読んで思うのは、「目的 purpose」とは何だろう、ということである。クラインマン先生の言う目的とは何なのだろう?
ふたたびタイトルを眺めていると、「創造の病」ということばが浮かんでくる。エランベルジェが言うような厳密な意味ではなく、こころの彷徨をとおして創造へと向かうことが連想されるのである。ここで、孤立が成長を育むときになるということばは示唆深い。この新型コロナウィルス感染拡大のなか、すべてのひとが一刻も早い終息を願っている。平常を取り戻したいと願っている。そこで思うのは、終息後には以前の世界に戻るのだろうか、ということである。それで新型コロナウィルスを征圧したことになるのだろうか。このように思うとき、この状況に「成長」ということばを使う先生の感性に強く共感する。河合隼雄先生からの学びのひとつに、次の語りがある。「心理療法とは、悩みや問題の解決のために来談した人に対して、専門的な訓練を受けた者が、主として心理的な接近法によって、可能な限り来談者の全存在に対する配慮をもちつつ、来談者が人生の過程を発見的に歩むのを援助すること、である。」(河合隼雄『心理療法序説』岩波書店、1992年)。けっして元に戻るのではなく、そこに人生過程の発見的歩みをまなざす姿勢は、筆者にはクラインマン先生のそれと重なる。この苦難の時期、ひとりの臨床家として、そのように在りたいと思う。このようにみると、クラインマン先生のいう「目的」が像を結んではこないだろうか。そしてそれは、臨床心理を専らとするのであれば、考え方や学派の違いを超えてすべての専門家がこころに抱くことなのではないだろうか。その目的のためには、日々の儀式にこころ傾けることがたいせつだと先生は説く。前置きが長くなったが、その語りに耳を傾けてみよう(このエッセイは、2020年4月9日午前11時10分(アメリカ東部時間)に新聞社に届いたものである)。
日々の儀式にこころ傾けることで、孤立は成長を育むときに変わる
現在の悲惨な時期にあっては、幸運にも自分たちの家でのんびり過ごすことができる人たちですら感情的な犠牲を払っています。直面している新たな現実、それは混乱した生活や感染の恐れ、愛するひとを気づかうことや長期に亘る孤立と孤独といったものですが、そうした現実は混乱した感情を表面化させます。そうした感情はパニックをもたらし、そして絶望へと向かっていきます。こうした状況は普段の多忙な生活を寄せつけるものではありません。けれども、この自己隔離の期間を、ただ耐えるだけではなくやりがいのあるものにする方法があります。
偉大な哲学者であり心理学者であるウィリアム・ジェームズが見出したのは、人間は多くのことが習慣となって生活する存在ですが、そうした習慣のなかで不要なものは取り除けるということです。彼が言うには、「冴えない態度で終日過ごさないこと、何に対してもため息をついたり憂鬱な声音で応じないこと」だと。ジェイムズはそう助言しています。新しい習慣を身に着けることによって、秩序だったやり方で前進することができます。セルフ・コントロールの感覚を常日ごろ高めて、感情に囚われないようにすることができるのです。生活を構成するそのときどきのできごとによりこころを傾けることができ、それによってプレゼンス(自分が存在しているという感覚)が産み出され、お決まりの日常行為が深い感情を伴って体験されるようになります。
妻のジョーンがアルツハイマー病と闘った10年のあいだ、その当時はとんでもない不幸に見舞われたと感じたのですが、そのとき、ジェイムズの知恵を家族をケアする主たる担い手として試してみる機会がありました。神経変性疾患によってもたらされる長い衰退は、一種のスローモーション災害を引き起こします。人生はリズムや方向そして意義を失ってしまうのです。
無気力になるのではなくワクワクする雰囲気を創りました。
ジョーンとわたしは、日常の活動を再構築することですさんだ気持ちを消し去りました。ふたりして経験できることを喜びました。日常的なタスクへと注意を向けることによって、そうした瞬間が情熱をもって目覚めてきたのです。運動、料理、食事、読書、仕事、さらにはニュースを見ることさえも、ふたりにとっては、穏やかでゆったりとした日常の行為のプロットになっていきました。それらは、幸せな楽しみの瞬間を与えてくれ、無気力になるのではなくワクワクする雰囲気を創り出したのです。不規則で不確実なこのときにあって、後ろ向きではなく前向きに生きていると感じさせてくれたのです。
ジョーンはもういません。いまやわたしの仕事はジョーンの世話をすることではなく、セルフケアの実践になったのです。79歳のわたしは、社会的分離(social separation)をして5週目に入っています。喘息と高血圧は十分にコントロールされています。元気で健康なのですが、これらの持病があるので、わたしはハイリスクのカテゴリーに入っていて自己隔離が必須になっているのです。
ジョーンのケアによってわたしにもたらされた知恵は、いま現在の孤独に対処するのに役立っています。たしかに、傷つきやすくなっていて、敗北するのではないかという脅威はつねにあります。けれども、お決まりの日常化された活動を中心に一日を整えて、その活動に身を任せることで対処できることを、わたしは知っています。
早起きして2時間運動します。それから朝食を摂り、洗いものをし、家事を終えてから机に向かって執筆をします。通常の学術活動と、この新しい疫病に関する日記の両方です。その後、昼食を摂ります。ゆっくりと適切な食事をするために準備をします。これらは、ジョーンのケアをしながら身に着いた儀式です。昼食を済ませて、少し散歩して学術活動に戻ります。一日の終わりは、最上の喜びである読書のために予約されています。
夕方になると家事に戻り、テレビのニュースを見ます。しかし、パンデミックについて見たり読んだりするのは、もっとも有益で個人的に役立つと思われるものだけに、厳密に制限しています。それよりも、夕食の準備を楽しむために時間をかけます。読書をして、映画を鑑賞し、テレビ番組を観てから眠りに就きます。就寝前に顔を洗います。洗顔ですら儀式化されクオリティに満ちています。
また、ジョーンから、喜びをもたらすものに囲まれることがいかに重要かを学びました。ふたりは音楽をとても愛していました。音楽は、病床の時期、慰安と聖域の源となっていました。今日、わたしは孤立しています。けれども孤独を感じることはほとんどありません。アリアとオーケストラ、バイオリン、ピアノの音色が空疎な家を満たしてくれるからです。
人生を豊かにする儀式から喜びの発見や創造が可能になります。
ジョーンが病いの床にあるときにわたしが見出した習慣は、わたしを根本的に変えてくれました。習慣は、日常生活を、人生を豊かにする儀式に変容させてくれるのです。自粛生活を送るいまですら、喜びを発見したり創り出したりすることができるのです。
私たちは誰もが、目的をもって耐える方法を学び、それを情緒的な変容、道徳的・人間的な変容のときとすることができます。アルバート・カミュは、疫病は人生が何のためにあるのかを問う瞬間であることを知っていました。Covid-19への対応として、ひとつの答え、すなわちあなた自身と他の人たちをケアするということを提案したいと思います。ひと息ついて、時間をとって、生活を創り上げるために日常の儀式を変えていきましょう。あなたの生活が危機に瀕しているのだと思って、日常の儀式にこころを尽くしていきましょう。
おわりに
素朴だがこころに響くエッセイである。何気ない日常のなかにこの時期を生きる知恵が潜んでいることを教えてくれる。このことは、かつて森田療法を生んだ東洋思想が伝えたことではないだろうか。それを西洋人のクラインマン先生が語ることに、グローバリズムの深化のときを予感させる。
新型コロナウィルス感染が早く終息して日常を取り戻したいと誰しも願っている。ただ、日常が回復したとしても、この期間の心理的体験が消去できないことは、震災をはじめ多様な災害から心理臨床家が学んできたことである。ウィルスは身体から消えてもこころの感染は終息しないのである。ひとりひとりにとっての、ウィルスのこころの感染記があるだろう。それは、適切なときになって、語られることによって共有され次代の生きる知恵として継承されていくことになる。そのために、心理臨床家としてこころを傾けていきたい。